2006年2月20日
レポーター

津波被害のあった
ナムケン漁港



津波の大きさを表してる
メモリアルパーク



 京子
題名
■ 被災地 その後
内容


今回の津波後の視察は、1つの記事がきっかけであった。

「被災地その後 心癒やす仮設寺院 タイ・ナムケン村」 朝日新聞2005.9.29

 夜7時になると、バンムアン避難所の一角にある仮設寺院に村人らが集まってくる。マナット師(55)らの話に耳を傾け、相談を持ちかける。週末には子どもたちも集い、ともに祈る。 マナット師は2月初旬に、東北の寺からやってきた。各地から駆けつけた僧侶らとともにテントを設け、被災者らの心のケアにあたった。メンバーが次々に交代していくなか、1人だけ残った。木造の仮設寺院が完成したのは7月初旬。マナット師が全国から集めた支援金をもとに、村人らが力を合わせて建てた。現在は修行僧を含め5人が暮らす。 漁師のソムチットさん(49)は毎晩、仮設住宅から通ってくる。津波に家族と親類の計11人を奪われ、船も家も失った。今も、津波の夢にうなされる。「でも、ここに来ると心が休まる。唯一の支えです」。マナット師は「被災者の心はまだ癒えていない。もっととどまりたい」と話した。                                              

この記事を見た私は、ここへ行きたい、ここへ行きお坊さんからお話を伺いたい。そう思ったのだ。
予定していたフライトが欠航なとなり、視察は、2月7日のみとなってしまった。プーケット空港から向うパンガー県は120キロ。ネット上で出来る限りの情報収集はした。しかし、実際にナムケン村がどこにあるのかも、記事のお寺がどこにあるかも分からない。そんな状況でたどりつくのか、考える前にまずはパンガーへ向かえ!ということで、朝8時に現地スタッフのやっさんとバイクにエンジンをかけた。
ナムケン村はどこか、道行く人に聞きながら走り続けた。途中、TSUNAMI VOLUNTEER CENTREがあり立ち寄った。ここなら確かな情報が手に入るはず。後20キロという。後30分走らせれば到着だ!と二人喜んだ。そのセンターで現在のナムケン村の様子を聞くと、津波直後の仮設はほとんどなくなり、移動した仮設住宅もあること、今は大きな活動を行っている団体も少なくなっていることなどを教えてもらった。昼食はナムケン村でと目標にし走り続けた。12時ちょっと過ぎにナムケン村到着。
村に入り、お店に来るまでの途中、トタンの仮設住宅をいくつも見た。人が住んでいる気配はなかった。チェンマイではよく見かける道路工事の脇によくある、日雇い労働者の一時的な寝床のような粗末なものだ。立派に建てられたコンクリートの仮設もあった。
昼食をとったお店の奥さんに話を聞いた。奥さんのお店も、津波後店を閉めていて、3週間前から再開した。亡くなった人の数も多いから当たり前だが、村の人口はぐっと減った。一時的避難のため、村を出て戻らなかった人も多い。仕事がないからだろう。お店の隣に魚加工工場があるが、以前はこの近辺で取れたものを使ったりもしていたが、今は他から魚を取り寄せている。彼女は、当時の様子をいろいろ話してくれた。ここにはこれがあった、あそこになにがあった、みんな持っていかれたと語った。記事にあったお寺の話を出すと、そのお寺に関しては頭をひねっていたが、敷地内に仮設住宅を建てたナムケン寺の場所、皆の拠所となっていたバンムアン寺の場所を教えてもらった。
ナムケン村の様子を教えて頂いたことに感謝をし、海沿いへ向った。途中造船のプロジェクトがあり、何隻もの船が並んでいた。漁業で生計を立てていた彼らにとって、造船の支援をすることが復興支援の1つであったのだろう。海沿いに出ると、そのプロジェクトの船があった。海沿いには、「Support by I-TV」(タイのテレビ製作会社)と書かれたプレートが掛けてある同じ造りの家が並んでいた。大・中・小の3種類のコンクリートの家で、同じ色の屋根。工場地帯かと思えた。津波防止対策をどう考えたのかが分らないが、海岸沿いの家々は、玄関開けたら砂浜、ちょっと奥まった方の家でも、玄関開けたら海という場所である。堤防などない。これでよいのか、と疑問に思った。
村の現状況をバイクで見て回り、ナムケン寺に向った。トタンの仮設の一角に、生活質需品(石鹸、駄菓子など)の売店があった。店の方から、自分以外は皆、各々の家が再建出来たりで空家だと聞いた。それから、最期の訪問先としてバンムアン寺へ向った。広いお寺で、何人かのお坊さんが居た。もうプーケットへ戻る時間だと思っていたので、ここに皆集ったのだなと目で確認するだけで去ろうかとも思ったが、少しお話を聞こうとお坊さん3人ほどが座っていたところへ挨拶しに行った。ここに来た理由を話すと、お坊さんの方から当時の話をして下さった。写真も出してきてくれた。先日行われた1周忌で多くの人が托鉢をしに来た写真を最初に見せてくれた。津波直後の写真も見せてくれた。当時、このお寺が遺体安置所となっていたため、被害者の死体が敷地いっぱいに並べられた写真もあった。水でまんまるにふくれた顔、体、そして浮き上がる血管、見るに耐える写真ではあった。この遺体を見た家族の悲しみも計り知れない。本当の被害の様子を見ることが出来たことに、見ただけで終わらしてはいけないだろうと思わされた。ご冥福をお祈りしたい。お坊さんも、こうした写真を訪問者に見せ、皆の記憶に津波を残していく事をしているのだと言う。気さくなお坊さんであった。
挨拶をし、一路プーケットへ向った。宿に一番近いビーチに着いたときには、もう夕暮れ。日が落ちかける海はきれいだった。こんなきれいなビーチが一瞬にして不幸な海となったのだなと、今日の見たこと、聞いたことを回想した。波の音は心地よく、きれいな海だった。
バイクで走りながら、いくつものビーチの看板を目にした。しかし、前夜に宿の人も言っていたが、観光業は厳しい状況であるという。2月という一番南タイのいい時期、つまり稼ぎ時なのに人が少ないのは深刻だろう。それでも、行きがけに、「2006年9月OPEN」というホテルの看板があったりもして、今後お客さんが戻ってくることを念頭にした事業もあった。タイ国内でも、私がチェンマイに居る頃から、南タイの美しさをPRしたCMを 流したり、雑誌の特集にしたりと観光産業を持ち直そうと精を出している。津波支援として自分は何が出来るかは、正直何も言えない。しかし、自分が見たもの、聞いたことを伝えること、そして、南タイの、プーケットのビーチのきれいさを多くの人に伝えたいと強く思った。


このウインドウを閉じる